HOME > Diary > アーカイブ > 2015年9月

Diary : 2015年9月

2015.9.30 / 100年杉の椅子

シンプルってのは何か?と考える。
「無駄が無い」のと「何も無い」のは違う。

無駄が無いシンプルって言うのは難しい。
突き詰めれば究極までいくだろうし、ずっとそれを求めていくものの一つだとも思う。

日本特有とも言える美意識は「削ぎ落としの美」であるから
古くからDNAに刻まれている様な気もするが、やはり難しい。


消費書を考えた上での生産のしやすさはコスト面、安定供給において必要な事だが、
作り手の都合だけになってしまっているものをシンプルと呼ぶことも多く見られる。
それが何も無いシンプルってやつだ。

商品において無駄の無いシンプルと何も無いシンプルの違いは思考のスタートと情熱の矛先が消費者か作り手である自分かの違いでもあると思う。

だからいつも使う人の事を考えて本当のシンプルっていうのを追いかけている。

椅子に求められる快適性、機能性とは、
長時間の座りでの快適性、永年の耐久性、とり回しやすい軽さ。
それらを最大限に叶えた上で1㎜も1gも無駄を無くす事を目指す。
最低限の部材と最小限の部品数、全て意味のある形状と構造で構成する。
そして、生産性の良い構造と加工方法、商品に合わせた量産ロット数でコストをなるべく落とす。

いつもこんな事を求めながら創っているがなかなか出来ない。


今回は、杉を使ってみた。

杉は柔らかく家具材としては超不向きだが、軽く暖かい。
特有の香りや鎮静などの効能もある。
そして、日本の固有種でもある。

しかし、杉の柔らかさは椅子づくりにおいて本当にネックだ。
専用の構造が必要になる。

削り出し仕上げの鉋や刀も難しい。
紙に例えるとカッターで切る際の画用紙とティッシュペーパーみたいな感じ。

部材を半パイプ形状やR形状、リブ形状などにする事で肉厚を抑えながら強度を保つよう工夫した。
それらは、鉋や刀などを駆使した削り出し仕上げの技術でクリアした。


重量4kgちょっと。
ウォールナットの場合と比べ約半分。
このサイズのパーソナルチェアとしてはかなり軽いと思う。

強度も座り心地も言う事無し。

でも、まだまだ。

まだまだ上がある。

なんとなく足りないものは分かるが、技術、経験ともに足りないからまだ創れない。


今回の杉利用にはもう一つ想いがある。
世の中、間伐材利用なんて言ってるが、はっきり言ってバカバカしい。
間伐材は主伐材を育てる為に間引かれたただの廃材も多い。
それらを使って製造、販売する側の都合のいい売り文句であることも多い。

100年もの歳月を何世代にもわたって人が大切に育て続けた「主伐材」にこそ価値がある。

なので、ワレや節が少なく赤身の多い主伐材だからこそ作る事ができる。
こんなもん白太(木の皮の部分)しかない間伐材じゃ強度が無くって逆立ちしたってつくれないものが創りたかった。




本質というものを探しているのだがこれも難しい。

本質とは不変ではないからだ。

経験を積むことで思考は深まる。
それに伴い新たな本質に気づく。

だから信じていたことが全く形を変えてしまうこともある。
それでもやはり、前に進んでいれば少しづつでも本質に近づいていくのだと思うので心配はしていない。

今のベストが明日にはゴミになっている可能性もあるということが分かっていればイイのだと思う。
それが柔軟性であり自らの成長の要素であると思う。
日々生まれ変わるつもりで変化を望んでいたいとも思う。

それは、ものづくりや会社経営においては最も大切なことである。


とは言え、人に喜んでもらえるイイものを創りたい。
不義理を働かず人を大切にしたいと願う気持ちは変わらない。

そう思わせてくれるのもやはり人である。

俺の家具づくりも本質に近づけてくれるのは周りにいてくれる人である。


だから、己の周りにいてくれる人が己の価値そのものだと思う。

2015.9.29 / 感謝する人たち2

2人目は修業時代の「坂本伊久太」大親方だ。
当時70歳。
リヤカーで日本橋を渡って三越に納品なんて時代から、総勢30数名の日田工芸を50年続けた強者だ。



当時の俺は22歳。
通わせてもらったインテリア・建築の学校を無事に卒業することになった。
なぜか自信満々。根拠は無い。



進路に迷う。

どーせ頑張るんだったら世界一まで成り上がりたい。

デザイン、建築、インテリアどれも魅力的だがアホな俺にはどうやって成り上がるのかわからない。
なぜなら、クライアント無しでものづくりする事ができない。
でも家具だったら工房さえあれば、商売になるかどうかは別として好きな物をつくって発信する事が容易だ。
子供の頃から手先の器用さには自信があったし、単純に現物をまず自分で好き勝手に創れた方が手っ取り早いと考えた。

そうして、修業期間は3年と勝手に決めて家具職人の門を叩いたのである。


面接の時「3年で独立します。」と言った。

そこにいるみんなの目が点になって一瞬後、笑いになった。
そして「お前はバカか?修行は最低10年だ!」
「同じハカリに乗せないで下さい」と答えた。
また、目が点になって笑いになった。
「じゃあ便所掃除からやってもらおうか?」


で修行スタート。

頭を剃って気合い十分。
でも空回り。

俺。。なんにもできねえ。。。
あまりも不出来だった。
自分でビックリした。

自信は一瞬で砂より細かくなった。

三ヶ月後に怪我をした。
「失敗も多い。怪我までする。もうクビ」と言われた。
「何でもします。もう少しだけ面倒見て下さい」で首の皮一枚つながった。

職人はスポーツ選手に近い世界だ。
早い遅い。上手い下手。が一目瞭然。
怪我の多い者はそもそも使えない。
当然誰も心配なんかしない。

ポジションは出来る者が勝ち取る。
先輩は若手に技術指導などしない。
みんなライバルだ。

プロなんだから出来て当たり前。
褒められる事なんて無い。

想像よりもずっと厳しかった。

なにより自分が恥ずかしかった。


でも、目標は変えない。

絶対3年だ。

その12月に俺は父親になった。
逃げられねえ。
おかげで腹が括れた。

こんだけダメだと清々しくもあった。


日本で一番家具づくりに時間を使おうと思った。
誰よりも早く行って、始業前に鉋や鑿など道具の練習。
誰よりも遅く残って、家具づくりの練習を兼ねた作品づくりを毎日やろうと決めた。
メシ食ってるときも電車の中でも。
出来れば寝てるときも。
いつでもその事で頭を一杯にしよう。
んで毎日20時間と決めた。

生まれて初めてマジでやろうと決めた。

でも、変わらず失敗ばかり。
毎日怒られる。

「ヘタクソ。帰れ。もう来んな。」の3段活用は日々の事だった。

一年経っても変わらなかった。

さらに半年が経った夜。

22:00を過ぎた頃、いつもの居残り自主練習。

電気代の節約ということで広い工場の中、電気は自分の作業スペースだけ。
半径5メートル先から闇が広がる。
正直ちょっと怖いが、それどころじゃない。集中して作業に打ち込む。

闇と光の境界線に足が見えた。
ドキッ!として固まる。

パジャマ姿の大親方だった。

「ま〜だやってんのか〜?!」
「・・・・すんません。」

「1年半毎日やってるな〜!いや〜それにしてもオマエ根性あるな〜!一年もたねえと思ってたのに〜」

修行開始からはじめて人にほめられた。
いや。一生懸命打ち込んだ事そのものがはじめてだったから、本当の意味で褒められたのは人生で初かもしれない。

うれしかった。

「あと半年がんばれ。オマエに環境をやる。」
なんて言って帰って行った。



その後、夜な夜な作った作品が朝日新聞主催のクラフト展で入選。
新宿伊勢丹や日本橋三越で作品発表となった。

そして半年。修行開始から2年が経っていた。



朝の朝礼で大親方からの発表。

「50年やってきて初めての試みだが、開発部をつくる。」

・・・・

「デザインから製作まで松岡1人に任せる。」

っえ?何だ??

「ただし条件は最低3日に2脚のペースで新作椅子をつくること。出来なきゃすぐに降格。」

はい??マジでなに言ってんだ?

よく分からないまま怒濤の日々が始まった。

帰宅後デザイン案を6つ描く。
朝、大親方にプレゼン。
2つ選んで、よーいドンッ!!
2〜3日で仕上げる為には完璧な段取りと10時間の集中力。
失敗は許されない。

朝と夜の自主練習は決めた事なのでやめない。
そうするとスゴい日々になる。

6:00起床。
電車の中で今夜のためのスケッチしながら出勤。
駅から会社までの自転車20分はその日の段取りを頭の中で反復イメトレ。
7:30出社したら道具の手入れとその日の仕事の準備。
8:30仕事開始。なんせ新作を3日で2脚。尋常じゃない。
18:30作業終了。ここから自主練習タイム。
22:00帰社。
自転車に乗りながら翌日の段取りを頭に叩き込む。
電車の中で今夜のためのスケッチ。
23:30帰宅。デザイン案を描く。
2:00寝る。

の毎日。


とんでもなく幸せな毎日だった。


今振り返っても家具職人として今までで一番恵まれた環境だったと思う。

自分でも実感できる成長速度は、日々生まれ変わっているような感覚だった。

営業さんも積極的に売ってきてくれて、結果も出た。

こんなチャンスをくれた大親方の期待に応える事ができて嬉しくもあり、ホッとした。


半年が経った。

いつのまにかそのペースに馴れてきた。


職人としてこれ以上に恵まれた環境はあるのか?

自問する。

雇われの職人としてはこの上ないな。の結論に至る。

もっともっと家具づくりがしたかった。

じゃあ独立するしかねえな。
その日に辞表を書いた。

大親方は当然だが驚いた。
「この環境に不満があるのか?!」
「もっと挑戦したいんす。」

「給料増やしてやる。」
「金はいらねえっす。」

「飽きちゃったのか?」
「飽きちゃいました。」

「最初っから3年って言ってたもんな。。」
「すんません。。」

とんでもなく身勝手ではあるが、数ヶ月後の退社が決まった。


大親方はすごく悲しい顔をしていた。
俺は「もっともっと」しか考えてなかった。

直後、大親方は実務を退き会長職になった。
三年後、日田工芸は廃業することになる。


あれから13年。
俺も経営者として人材育成をする立場。
だから余計にわかる。

ただ悲しかったろうなと思う。

今、家具職人として居られるのはチャンスをくれた大親方のおかげだ。

あの怒濤の日々は、数十年の経験に匹敵するほど濃密な時間だった。


上の写真は2011年に大親方にとって思い出深い場所でもある新宿伊勢丹リビング売り場のメインステージで初めてkoma展をやらせてもらった時。

俺の送り迎えで招待した。
喜んでくれた。



今も必ず年に一度のごあいさつは欠かさないようにしている。


「50年会社を続けられたのは自分に何の才能も無かったから人に感謝が出来た。お前はどうだ?感謝できるか?」

「苦しいときは会社が成長してる時。楽なときは会社が停滞してる時。お前が選んでそうしてるんだろ?だったら苦しがるな。」


毎年いろいろなアドバイスをもらえる。

83歳になった大親方は耳が遠いので俺の話はほとんど聞こえない。
だから、俺が意見も質問もすることはない。
ニコニコしながらしてくれる一方的な話をただただ聞くのだ。
今年が最後かもしれないと毎年思う。
だから、聞いて咀嚼することにだけに集中する。
年に一度のこの機会は、自分が納得しないと気が済まない俺にとって貴重な時間だ。


今年ははじめて俺が酒をおごらせてもった。

別れ際「きちんと職人を続けてくれてありがとう」なんて言われた。
この仕事を選んで続けてきて良かったと思える一言だった。

「技術を繋いでいく」ってことが恩返しだと解釈している。

とにかく感謝している人だ。




そんなふうに希望を抱いて独立した俺だったが、地獄が待っていた。

当然、本当に多くの人に助けてもらえたから13年続けてこれてるわけだ。

3人目にいく前に。


修業時代の事を思い出したら、家具づくりがしたくなった。

今は家具づくり以外にもやることがいっぱいで、そればかりに打ち込む事はできない。

でも、ちょっと挑戦してみたいものがある。

2015.9.25 / 感謝する人たち1

感謝してる人は、挙げればキリがないほどいる。
360°どこにも脚を向けて寝れない。
もう立って寝るしかない。

なのでこの場では自分の「ものづくり」に対して影響をあたえてくれた人にしぼる。

まず最初の人は
高校2年、3年の時の担任「宮道先生」当時40ちょっとくらいの美術の先生だ。
背の高いイケメンだった。

俺は別にグレる訳でもなく中途半端なただのバカだった。まさに上の写真。

一年生の時から少しイタズラが過ぎて2年に上がる時は誰も俺の担任をしたがらなかった。
そんな中、「アイツは僕が2年3年と受け持ちます!」と言ってくれたのが宮道先生。

かといって、素行が直る訳でもなく、その後も学校に刑事が来て連行されたり、無免許で捕まったり、バイク事故を起こしたり、しょっちゅう補導されたり。。
ただのバカで停学になった。

生活指導や教頭なんかは「もう退学だ!」「学校に義理やしがらみはないのか?!」などなどさんざん言わてた。
「うるせえなあ」って俺が言うより少し早く「もう一度チャンスを!」宮道先生が彼らに何度も頭を下げて謝ってくれた。

校長室を出て夕暮れの薄暗い廊下を黙って二人並んで歩いていると肩を組まれた。
穏やかな声で言われた。
「何も気にしなくていい。うるせえって思っていればいい。ただ、自分の美意識だけは大切にしろ」
そっぽを向いて「うるせえな」って返した。
肩に置かれた手からやわらかい表情が伝わってきてそのまま黙って歩いた。

子供の頃は絵が得意でよく地元の美術館に飾ってもらってた。
区から画材が送られてくるのが楽しみで、いつも絵を描いたり作ったりしていた。

そう言えば美術かあ。。なんとなくそんな事を考える瞬間だった。



卒業後、親父から「就職するか、進学するか、出て行くか」の三択を与えられ実家を出る。

電気もガスも水道も全部止まってすげえ貧しかった。笑
オンボロの木造で冬は家の中でも息が白かった。
公園に水を汲みに行っていた。
当然家賃も滞納してヤベエそろそろホームレスだな。。なんて思ってた。

隣の一軒家が大家の家でたまに晩飯なんかを持ってきてくれて感謝している。
でも、しょっちゅう勝手に合鍵を使って入ってきては説教された。
「昼まで寝てなにやってるんだ!」とか「こんなに散らかして!」とか、ほっといてくれよ!っていう内容ばかりだったがある日、前から気になっていた天井のシミについて聞いてみた。
俺の前は美大生で、デッサンなんかを天井に貼ってた痕らしいことが分かった。

宮道先生の顔が浮かんで、何だかいてもたってもいられなくなった。

次の日、美術予備校に潜り込んだ。勝手にイーゼルとスツールを置いて授業を受けた。
何も知らない講師達は「君!絵心あるね〜!」と褒めてくれた。
その後も毎日通ったったが名前なんかも覚えられちゃっていいかげんヤバいな〜。。。
そうっと消えた。

数ヶ月後、美術の学校に行かせてほしいと親父にお願いしに行った。

「生んだ責任があるからなあ。俺にしか出来ない事は協力してやる」の返事がもらえた。

そこからが今のものづくりに繋がるスタート。

その学校で現在komaの専務である亀井とも出会うことになる。

もし宮道先生が美術の先生じゃなかったら違う仕事をしているかもしれない。


だからまず最初の人だ。

2015.9.19/器用とぶきっちょ

結論から言うと「ぶきっちょ」嫌いじゃない。


イライラはするけど。

チームで見ると良い事がある。
ぶきっちょの面倒をみんなで見る事で一体感が生まれて、
その子が少しづつデキるようになってくると小さな達成感が生まれる。

デキるようになったぶきっちょは、ペラペラ覚えた器用な子より技術が体に深く浸透していて忘れない。
苦労して覚えたぶん、ポイントが分かってるから後輩に教えるのが上手い。

何より、ストーリーがあって将来の酒の肴になる。

だけど、ぶきっちょはそこまでいくのが難しい。
失敗も多い。当然怒られる。任されない。後輩に抜かれる。などなど。辛い事ばっかり。
だから続かない。

でも、修行がある仕事ってのは、ちゃんとモノにするのは苦労するけどモノにしたら
「俺はコレがデキる人です!」って自信満々に言えるイイ仕事だと思うんだけどなあ。

まあ止めはしないけど。いつか出来るようになる!なんて事は言えないし。

環境をつくるのは本人しか出来ないし。

俺に出来る事は、一生懸命働いてくれてる事に感謝する事ぐらいかな。

2015.9.16 / 好きこそものの上手なれ

「好きこそものの上手なれ」

そりゃそうだ。
それしか無い。
ほとんどの才能は好き過ぎて、どっぷりハマった結果が創るもんだ。

んで、ハマるもんなんて見つけようと思って見つかるもんじゃない。
いつのまにかハマっちゃってるもんだ。
ヤラなきゃしょうがねえから無我夢中でヤッてるうちにいつのまにか。。だ。

俺の場合は修行開始1ヶ月で彼女(現在妻です)に子供が出来て、
「もうヤルしかねえ」って思えてラッキーだった。
三国志時代を創ったと言ってもいい「背水の陣」ってやつはウソみたいにシンプルだけどスゴい作戦だ。

ほんの少しでも、とりあえずでも興味があるから始めた事そのものが才能の種だ。
それと出会える事は一生のうちで何度も無いから続けないともったいない。

「実際やってみたら自分には向いてない。才能が無いから辞めます。」
なんて言うガキを見る事があるけど「テメーはバカか?!」って言う。「才能あるなんて思ってたの?」って。
先天的な「本当の才能」がある人なんてほとんどいない。99,9%の人が凡人。

本当の才能なんていうのが発揮されるステージは遥か彼方の雲の上。
スポーツで言えばプロ野球、Jリーグ、オリンピック。もっとそれ以上かも。
俺ら家具職人で言えば日本トップレベルのステージより上。
それより下なんて努力だけでなんとでもなる。
毎日10時間頑張っても1年で3650時間
トップレベルまで行くのにどんなに早くても10年。
一生そこまで行けないのがほとんど。
だから、ほとんどの場合、本当の才能なんてもんは関係ないところの話。

チャレンジ開始から数年のガキが才能なんて語って言い訳してんじゃねえ!!と思う。

だから続けてほしい。
せっかく頑張った数千時間が無駄になる。

一生懸命やってると、もっともっと好きになってくる。
楽しみがわかってくる。嬉しいだってある。
また欲しくなる。
辛いよりも、もっと欲しいが強くなる。
ただのジャンキーだ。笑

でも、ジャンキー15年やってたら「才能あるね〜」って言われるようになる。

そんなもんでしょ才能なんて。

「だから頑張れ〜」

って我が社のぶきっちょな若い衆に言ってやりたいけど口に出しては言えないからココに書く。

1

« 2015年4月 | メインページ | アーカイブ | 2015年11月 »

このページのトップへ